これまでと、これからと

私の今までと、これからの記録。主に父への片道の手紙です。

長い冬の先にあるもの(2015,3,10)

 ひと月以上更新が途絶えていました。


ずっと体調が悪かったんですけど、ようやく最近元気になってきました。


体調が悪い…というのは、全く食事を受け付けなくなってしまってたんですね。2月の初旬のことです。


病院でいろいろな検査を受けて、結局どこも悪いところは見つからなかったので、精神的なものだろうという事だったんですけど…。


どこも悪いところがないとわかって安心したのか、今通っているカウンセリングの効果もあってか、ひと月かけてようやく今、普通に食事がとれています。

 

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立春からひと月以上も経って、すっかり季節は春ですね


この1ヵ月の間、私はある一つの気づきの中でいろいろなことを考えていました。


私が悩んで抱えている様々な問題…その一つ一つは全く別の問題のようでしたが…ある一つのキーワードによって別々の点が一つにつながったように感じたんです。


一つの気づき、キーワード…それは、自分がアダルトチルドレンであるということです。


何となくはわかっていたんです。


父が精神的な病を抱えているとわかった時に、うっすらとその言葉が浮かんできたので。


子供の頃からコミニケーションが下手で、生きにくさを感じていて…それは、誰から影響されたというものではなく、私が持って生まれた性格なのだと、ずっと思っていました。


アダルトチルドレンではないかと考え始めた後も、自分が思うようにいかないことのすべてを父の責任にしてしまっているような気がして、認めることに罪の意識を感じていました。


どれだけ自分が子供時代に辛い思いをしてきたのか…それって、長い間その環境の中で育っていると感覚が麻痺してくるんですね。自分なんかアダルトチルドレンだと言ってはいけないような気がしていました。そんなにひどいことをされていないんじゃないかと思って。


父が生きていたならまた違っていたかもしれません。


父が自殺未遂をして、その結果あんな風に亡くなってしまったから余計に、死者に鞭を打つような考えを持ってはいけない…父を責めてはいけないと思ってしまっていたんです。


でも、調べれば調べるほどに、私はアダルトチルドレン以外の何物でもないと確信するまでになったんです。


私は、父から精神的な虐待を受けていました。


いえ、父だけが問題だったのではないと思います。今思えば、8歳になるまで一緒にいた母の記憶が、どうしてこんなに少ないのか…それもずっと疑問だったんですけど…精神的な病を抱える夫と、口うるさい姑との生活で、母もかなり辛い日々を送っていたのではないかと想像したんです。実は、私は母にもあまり構ってもらえてなかったのかもしれません。


私が育った家は、家族全員が何らかの心の不調を抱えていて、互いに労わりあうのではなく、互いをはけ口として苛立ちをぶつけ合いながら生活していた(母は、それに必死で耐えていた)…そんな機能不全家族でした。


父に対する罪の意識はひとまず置いておいて、自分がアダルトチルドレンであることは事実。


自分のせいじゃない、自分は辛かったのだと口に出して言い切っていいのだと分かった時は、どんなに心が楽になったか…。


自分に対する不信感、コミュニケーション力のなさからくる生きにくさ、父とのこと、依存体質であること…霧のように掴み所がなく、ぼんやりと私の心の中を占めていたものが、解決できる問題として捉えられるようになったことが、本当に嬉しい。


アダルトチルドレンである自分を受け入れ理解して克服していくこと。とても、とても明確でやりがいのある課題が与えられたと、今は思っています。

 

 

今日話せるのは、このくらいかなぁ。

 

明日は長男の中学校の卒業式なので、また近々、門出を迎えた長男への思いなど、書いてみたいと思います

 

 

 

青い空の彼方へ(2015,1,16)

 


お父さん

私も寂しかったけれど

あなたも寂しかったんだよね…

全ては過去のこと

もう終わってしまったこと

私は、今と、未来を生きて行くために

あなたをこの場所から見送ります

あなたが寂しさから解き放たれて

暖かな光に包まれる

そんな、青い空の彼方へ

 

 

 

さようなら


ありがとう

 

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たまには遊びに来ていいからね

 

 

 

 

濁流(2015,1,13)

 

私は、愛されなかった。


愛してほしかったのに、愛されなかった。


それだけなら、恨んで、憎んで、すっぱりと


縁を切って忘れてしまって


自分の人生の再スタートを切れた…。


なのに、父は、ひとりでいることの全てが私のせいだと言って、死のうとした。


一生忘れられない、父の言葉…


「おまえが悪いんだ。だから俺はやってやったんだ!」


私のせいで…。


私は、どんな理由があるにせよ


ひとりの人間を死へと追い詰めた。


その罪の重さに、おかしくなりそうだった。


本当に私のせいなのか? と


反発したくても、父は病気だという。


病気なら仕方が無い。


愛されなかったことも


傷つけられたことも


自殺未遂されたことも


それによって、故郷を奪われたことも


胸におさめておくしかない…。


怒りも、憎しみも


どこへもぶつけることができないとしても


仕方が無い…。


そんな風に、必死で耐えていた。

 

 

 

でも、やがて芽生えてきた、もう一つの思い…


「父も、可哀想な人だった」


もしも


もしも


父の病気が良くなって


心を通わせることができたなら…


そんな親子になることができたなら…


許せるかもしれない。


そうなれたら、どんなにいいか…


頑張って頭を切り替えて


そんな、ちょっとの希望を持って


新しい病院を探して、転院の準備もして


向かい合う決意をした。


そして


最終的には今の私の自宅に引き取って


最期の日まで一緒に暮らせたら…


でも、そんな矢先に


父はあっけなく死んでしまった。


最期まで、まともな話をすることは、できなかった。


残された私はひとり


ポジティブとネガティブの両極を


激しく行ったり来たりしながら


どうしようもない、この、堂々巡りの思いを


あれから1年たった今日も、こうして記しています。

 

 

父のことはもう書かないと言ったけど…


細かく思い出して整理はできないけど


吐き出してしまいたいものはある。


本当に私が悪かったのか


父が悪かったのか


誰も悪くなかったのか


私のこの心の底を流れる濁流を


どこに流せばいいのか…

 

 


いつまでも、こんな私でごめんなさい。


読んでくれて、ありがとう。

 

 

家でひとりになる、平日の昼間は嫌です。

 

 

もう夢で泣きたくない(2015,1,9)

昨夜はいろんな夢を見ました。

今日は、その夢の話をさせてください。

 

 


まずは、現実の話から。


寝る前、遅い夕飯をとっていた旦那さんと、入院した親戚の話になりました。
この年末年始、旦那さん側の叔父、叔母で80歳を越える2人が、相次いで入院していたんですね。


昼間、お義父さんがお見舞いに行った様子だと、もう、長くないかもしれない…ということで…その話を私が旦那さんに報告したんですけど…


旦那さんは、しばらく黙って聞いていたと思ったら、静かに静かに泣き始めました。


「みんな、いなくなってしまうんだな」って。


旦那さんに、「不安だから、一緒に寝てほしい」とお願いされたので、一緒のベッドに横になりました。
旦那さんは、私の背中にしがみつくようにして、すぐに寝息を立て始めて…


私は、1:55まで起きているつもりだったので、そのまま考えごとをしていたんですけど…うっかり寝てしまいました。

 

 


ここからは、夢の話。


最初に見た夢は、フィギュアスケートの織田くんが、何故か高校の自分のクラスメイトの設定で…そして、何故か亡くなったということになっていました。


夢の中で、その報告を教室で聞いた私は、織田くんの笑顔を思い出して、たまらなく寂しくなって…トイレに駆け込んで泣きました。


近くにいた下級生数人が「今日は3年生に声をかけちゃいけないよ、みんな辛い思いをしているから」って、話しているのが聞こえていました。


そして、寂しい気持ちで学校を後にして…次に私がいた場所は、何故かお煎餅屋さんのような場所。


そこには何故か、私の三男が一緒にいました。三男は、そのお店の大好きな味のお煎餅が欲しくて探していたけれど…どこにもありません。店の人に聞いてみると…


「ああ、あの味はこの前亡くなったお婆ちゃんにしか作れなかったんだよ。毎日あの味のお煎餅が食べたいって、たくさんお客さんが来てくれるんだけどね…ぼくも楽しみにして来てくれたのに、ごめんな」との答え。


そうだったんだ…皆が、そのお婆ちゃんがいなくなってしまったことを悲しんでいる…もう一度あの味に、お婆ちゃんに会いたいと、集まってくるんだな…。


死んでしまっても、あったかい記憶を残していくような人、その人のぬくもりが残っているような場所ってあると思う。あの店は、お婆ちゃんは…そして織田くんも、そんな人、そんな場所だったんだな。

 

それに比べて…

 

なんて今の私の実家は冷たい場所なんだろう。


誰も住んでいない家。

生花が供えられることのない仏壇。


父は、あの家が好きで、出たがらなかったから、そのまま母や祖父母と一緒にあの家に残してきたけれど…


寒くはないだろうか…

父を思い出してくれる人は、いるのだろうか…。

 


全部、夢の中の私が考えたことだけど、すごくリアルな夢で…悲しくて、悲しくて、夢の中だけじゃなくて、現実の私も寝ながら泣いていました。


自分の泣き声で目が覚めた時、スマホで時間を見たら4:00過ぎでした。


そうか、うっかり寝てしまったのか…去年の今頃の時間は、ちょうど亡くなった父と一緒に病院を出て実家に帰る頃だったな。

 


トイレに行ってから、再び眠りについた私は、また夢をみました。

 

あれはきっと、PIW(プリンス アイス ワールドという、フィギュアスケートアイスショーのひとつ)のふれあいタイム(スケーターとお話ができる時間)に、私が行っている、という設定なんだと思います。
彼は「花になれ」の衣装を着ていました。


目の前に来た彼に私が話しかけると、彼は、目を少し見開いて、一生懸命聞いてくれました。そして、最後に、あの糸目になる笑顔で「どうもありがとう」っ言って、小首を傾げるようにピョコンとお辞儀をして、滑って行ってしまった…。


斜め左のショートサイドのファンに向かって滑っていく後ろ姿を見送りながら…私はとっても満足していました。でも、すぐに心は寂しさでいっぱいになって…


「もう満足だよね。もういいよね。もう思い残すことはないよね」って、自分に言い聞かせてた…


そしたら…また夢の中の自分も、現実の自分も、泣いていました。

 

 


「おい!大丈夫⁈ 」
と、旦那さんに呼ばれて起きた時、私は声を上げて泣いていました。
「大丈夫か?号泣だったぞ」

 

なんで私は、一晩にあんなに何回も、実際に泣いてしまうような夢を見てしまったんだろう。


心に溜まっているものを吐き出すために、別の力を借りて、泣かせてもらったような…そんな気がしています。


夢占いで見てみると、夢を見て実際に泣くのは、精神的に抱えているストレスなどを解消させるため…そして、置かれている状況が好転する兆しであるとありました。


好転するかどうかはわからないけれど…
抱えているものが溢れ出てしまうほど、いっぱいいっぱいなのは事実。


もしかしたら私は、自分が思うよりも早く、この心をなんとかしないといけないのかもしれない…。

 

 

 


今日の昼間は、父のお墓参りに行ってきました。約束通り、ガーベラの花を買って。



 

お父さん、私が抱えている、あなたへの思いは…あまりに複雑で、自分ひとりでは、もうどうしようもないのかもしれません。


どうしたらいいんだろう…。


もう夢を見て泣くのは嫌です。

 

命日を前に思うこと(2015,1,8)

明日は、父の命日です。

 

 

父は、一体何の心の病を抱えていたのだろうかと、父が自殺未遂をしてから考えて、調べたりしていました。


自殺未遂後にすぐに入院した病院は、急性期の患者専門の病院だったので、父が、その行為に至ってしまった根底にある疾患について、詳しく調べようとはしてくれなかったからです。痴呆もあったので、正確には分からないと、言われた記憶もあります。


入院時に行なった簡単なテストによって、「躁鬱病」との診断が下りていたけれど…その病気について調べても、私には父が躁鬱病であったとは、思えないんです。


病院が積極的でなかった上に、父は3ヶ月に渡る入院生活の終わり頃、肝硬変の末期にあたる症状…肺に水が溜まって、呼吸が苦しくなってきてしまったため、精神科から、急遽内科病棟に移されました。


そこからは、本当に、坂道を転がり落ちるように容態が悪くなってしまったので…


だから、結局、本当の病名は分からずじまい。もう、本人はいないのだから、記憶と照らし合わせて想像することしかできないけれど…。


父は、多分、境界性パーソナリティー障害であったのかな?と思います。
専門的に見てもらったら、違うかもしれないけれど。


そして、調べているうちに気づいたこと…


きっと、私は双極性障害です。
そう考えると、腑に落ちることがたくさんあるからです。


昨年の2月から約7、8ヶ月の間、私は、もの凄い「躁」状態でした。


ソチを見て彼を知って、好きになって…私は急に元気になって、父のことから立ち直ったつもりになっていました。それ以前は鬱状態だったので、救われたと思ったんです。


自分にできないことなんかない。今なら何だってできる。やりたいことがたくさんある!


人生に光が射して、急に目の前が開けたのを感じました。


…でも実際は、精神は興奮する日が続くのに、集中力が全くないので、思うように、やりたいことが実行に移せない。
それどころか、注意力が散漫で、最低限の日常生活をこなすことで、精一杯だったんです。


異常に興奮しているから…全く眠くなかったし、一日に3時間くらいしか寝ていなくても、全く疲れを感じなかったし、食事も喉を通らなかったけど、お腹も空かなかった。金銭感覚も…めちゃめちゃになってました。


当時は恋煩いか⁈ なんて思ったりもしたけれど…そんな可愛いもんじゃなかったことが、その頃、旦那さんに言われた言葉でわかります。


「最近の君を見ていると、君がいつか死んでしまうんじゃないかって、怖くて仕方がないんだよ。そのくらい、今の君は異常だってことに、気づいてくれよ!」


なんて馬鹿なことを言ってるんだろうと思っていました。奥さんが、こんなに夢中になれることを見つけたことに、嫉妬しているだけなんじゃないの?って。


邪魔されたくない! って、怒りさえ感じていました。


でも…今ならわかります。私は躁状態だったんです。きっと、顔つきも違っていたと思います。


秋に入る頃から、少し落ち着いて…そして今は、鬱の入り口にいるのかなと感じます。あんなに毎日毎日チェックしていた、彼のファンの皆のブログを読むことが、近頃は辛いんです。


チェックリストに手が伸びない…。


彼のことを考えることは…もちろん、今も大好きだから考えるけれど、前よりも、凄く遠く感じます。


今年に入ってから…朝は家族の食事の支度があるから、頑張って起きているけれど…全員が仕事や学校へ行ってしまってからは、午前中は、たいていベッドに横になっています。何もする気がおきなくて…。


でも、こうして、ブログだけは書きたいと思って手が動いているのだから、まだ大丈夫ですね、きっと。

 

 


父が亡くなったのは、1月9日、午前1時55分。

あと5時間くらいです。

今夜は、その時間までは起きていて、父のことを思いながら眠りにつこうと思います。

 

最後に会った時…8日の昼間に最後にお見舞いに行った時、父は、帰ろうとする私に、もっといて欲しいと言ったんです。


でも、私は、子どもたちが学校から帰ってくる時間に合わせて帰らなきゃいけないと思っていて


「また、あさってくるから」


と言って、帰ってきてしまった…。


最後になるとわかっていたら、もっと一緒にいてあげたのに…。いや、最後になるとわかっていたら、帰らなかった。

 


お父さんは、自分の最期をわかっていたのかな…。

 


明日は、お墓参りに行ってきます。

 

ピンクのガーベラの花を買って…。

 

 

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父を棄てたこと、その言い訳(2015,1,7)

 私は、父を棄てたんじゃない。

 


たくさんの理由が重なって、私たち家族と父は、10年に渡った同居を、約3年前に解消しました。

 

 


たくさんの理由…

ひとつ目の理由は、私の旦那さんが長男だったこと。


結婚当初から、旦那さんの実家から、いずれは帰ってくるように…遅くとも私たちの長男が中学生になる頃までにはと、言われていました。


その前に、義父母のどちらかに万が一のことがあったら、すぐにでも帰ること、とも言われていて…


08年の夏、お義母さんに肺ガンが見つかって、3年生存率が10%以下と言われた時に一度「帰ってこれないか?」と言われたことがあったのですが…


その時、私はちょうど三男を妊娠中でつわりがひどく、入退院を繰り返していて…出産まで体調が思わしくないままだったんです。


それに加えて、お義母さんのガンの進行のスピードがもの凄く早く、とにかく引っ越しより何より、お義母さんのガンを食い止める治療法を探して、試して…ということに追われる日々になってしまって、タイミングを逃してしまったんです。


結局、お義母さんは10年の夏、闘病2年で亡くなりました。


その時、長男は小学5年生。
すぐに帰るという話もありましたが、長男には当時の小学校を、友達と一緒に卒業させてあげたかったんです。
そして、「長男が中学入学のタイミングで帰る」という話が、初めて現実味を帯びてきました。


それでも、「子どもたちのために帰らない」という選択肢もあるかと思いますよね? 長男は中学入学のタイミングだとしても、次男は小学校の途中で転校しなくてはいけなくなってしまうので。


でも、私たちが東京に残れる確率は、ほとんどありませんでした。

 

 

 

ふたつ目の理由は、お義父さんがうつ病になってしまったこと。


お義母さんが亡くなって、生活の全てをお義母さんに任せ切りだったお義父さんは、うつ病のようになりました。


毎日毎日電話をして、子どもたちと話をしてもらったり、毎週末、家族で帰省したりして、お義父さんが、寂しくならないように気を配っていたのですが…お義父さんは、毎日電話で泣き、毎週末私たちの帰り際に、泣きました。


食も細くなって、みるみる痩せてしまって…


自営業の仕事は、なんとかこなしていたのですが、仕事と、家事の両方を一人でやるには、お義父さんは年をとりすぎていました。


家事をやる人が、絶対に必要でした。

 

 

 

三つ目の理由は、東京の私の実家が狭かったこと。

 

私たち夫婦は、3人の男の子に恵まれました。


小さいうちは良かったのですが…3人が大きくなる頃を想像すると…3人分の机と布団を並べられるスペースは、ありませんでした。


子ども達が大きくなったら、食卓さえ一緒に囲めなくなるほどの狭さ…。


建て替える、という選択は…田舎の家を放っておいて、そんな選択はできませんでした。


帰ることを期待されている長男が、奥さんの実家を建て替えるなんて…。


しかも、田舎の家は、東日本大震災の影響で、内壁が剥がれ落ちたり、風呂場のタイルが割れたり、窓が閉まりにくくなっていたので、建て替えるとするなら、絶対に田舎の家の方でした。

 

 

 

そして、最後の理由…。


それは、父から逃げたかったから。


父は、私が子どもの頃から、ちょっとしたことで急に人格が変わったように逆上して、暴言を吐く人でした。


その、あまりの変わりようが、子どもの私にはとても怖くて…私は、いつも父のご機嫌を伺うような子どもでした。


すごく気をつけていたのに、うっかり怒らせてしまうと…父は、平気で私を傷つけ、その後、一週間ほど父の機嫌は戻らず…当たり散らす父の機嫌が直ることを、ただじっと耐えて待つしかありませんでした。


例えば、小学生だった私が、朝礼の時に貧血で倒れてしまったと、家に帰ってから報告すると…「なんで人前で倒れたりするんだ!! まるで、俺がお前にろくに食べさせていないみたいじゃないか!! いいか!もう2度と倒れるな!わかったか! 」と怒鳴られ…その日の夜から、大量の(10錠くらい)栄養剤を飲まされました。


父が心配しているのは、私の体よりも、世間体…。


「お前みたいな奴は、俺の子じゃない!」って何度言われたことか…。
そのくらいの話は、星の数ほどあります。


暴力を振るわれることこそありませんでしたが…いや、私には直接手を出すことはありませんでしたが…よくよく思い出してみると、母が、父と喧嘩して、おでこから血を流してたことがありましたね。


それから…父が祖父と喧嘩してひどく暴れた夜があったんですけど…私はその夜、祖母に言われて、家中の刃物を隠しました。


だから…子どもには暴言だけでしたけど、きっと、母や祖父母相手には、暴力もふるっていたのかもしれません。


あ、暴言だけじゃなかったわ。
私が中学、高校生になって、なかなか父と会話をしなくなると…「お前の秘密主義が俺には許せない!!」と言って、部屋をメチャクチャに荒らされたこともあったっけ。


そんな父だから、自分のことを話さなくなったというのにね。


そんな父でしたが…母が亡くなって、祖父母が亡くなって…私たち子どもも大人になって嫁ぐ頃には、随分と穏やかになっていました。


ま、父も老いてきていたし、私たち子どもも、相当父の扱いには慣れていたので…父が怒ること自体が少なくなってきていたんですね。


姉が先に嫁いで…


私が嫁ぐことになった時、家に父が一人になってしまうので、父に食事を運べるように、私たち夫婦は、私の実家近くにマンションを借りて住むことにしました。


その時代が、一番平和だったと思います。


適度に距離が離れていて
父も、孫に会いたい時だけ会える。


その頃は、父も体調が良かったんでしょうね。近所の仲間も、まだ皆存命だったので、仲間同士で自転車に乗ってあちこち遊びに行って…ひとりの時間を楽しんでいるようでした。


フリーで仕事をしていた私は、たまに会社に仕事をしに行く際、長男を父に預けました。でも、父が怒ってしまうようなことはありませんでした。


だから…長男が幼稚園に入学する1年前の03年の春、父に「一緒に住まないか?」と言われた私は、「それもいいかな」と思ったんです。家賃が浮くというのが、とても魅力的でしたし、食事を運ぶ手間もなくなるし、自分が出た幼稚園、小学校に入れられるし…


こんな穏やかな父だったら、一緒に暮らせる…。


ただ、いつかは旦那さんの実家に帰らなきゃいけないという約束があったので、「最長10年」という話でお互いに納得して、03年の夏には実家をリフォーム。その年の秋の始めに、引っ越して同居が始まりました。


同居が始まって…


残念ながら…穏やかな父は、徐々に変わっていきました。


自分のペースを乱されることや、考えと違うこと、プライドが保てなくなるようなこと、世間体が悪くなるようなことには、例え子ども相手でも、容赦無く口撃してきました。


トイレトレーニング中で、うっかり漏らしてしまった次男に対して「おまえなんか、猿以下だ!!」と怒鳴ってみたり。


私が長男を叱っていると、その内容が気に食わなかったのかすぐに参加してきて、「お前達は最悪の親子だな!今すぐ俺の家から出て行け!!」って、何故かふたりまとめて怒鳴られたり。


気に入らないと、子どもたちのことを徹底的に口撃する…側で見ていて、たまらなく辛くて、私は何度も泣いて抗議しました。


でも、父は人の意見を聞き入れる人ではないので…何度やめてほしいと頼んでも、同じように口撃して…どうしてわかってもらえないのか?と聞いても…私がやめてほしいと言ったことさえ忘れていました。


忘れてしまっていたことに対して、「忘れたっていいじゃないか!人間は忘れることができるから生きていけるんじゃないか!!」と開き直る父…。


きっと、本当にその都度逆上した自分のことは忘れていたのだと思います。そして、酷いことを言われた私や子どもたちの心の中には、忘れられない傷が残っていることも、想像すらできない(自分がしたことは、なかったことになっているのだから、当たり前です)…もう、その言葉を聞いた時は絶望しました。多少でも、申し訳ないという気持ちがあると思っていたから…。


「お前達の気持ち?そんなもん、知るか」


親が子を叱りすぎてしまう時、つい言葉が過ぎてしまった時って、よくある話だと思うけれど…親は自分の言動を激しく後悔するもの。そこには愛があるから。


でも…父には愛がなかったんだ。


一歳を過ぎて自我が芽生えてきて、よく泣いていた三男のことを、父が「キチガイ」呼ばわりをし始めた時、我慢は限界に達しました。


早く早く、この家から出たい。
もう父から離れなければ、私たちの関係も、子どもたちの心も、取り返しのつかないことになってしまう!


当時はまだ、父の持病はコントロールできていて、ひとりで生活することに、何の問題もありませんでした。


だから…


ちょうど約束の10年になっていたし(その約束も、父は忘れていましたが)、子どもたちの転校による精神的な負担を考えると、やはり、長男が中学入学、次男が2年生になるあの時期が最後のタイミングだし、田舎も人手が足りないから…


父にはそう説明して、納得してもらって…


12年3月30日、私たち家族は東京を離れました。

 

 

きっと、父は納得なんてしていなかったんでしょうね。


どれだけの言い訳を並べても、私は、父を捨てたことに変わりはないのかもしれません。父が、捨てられたと思っていたのだから…それが全てです。

 

 


私は、父を棄てたんです。

前日のこと(2014,12,12)

朝の8時にヘルパーさんから電話がきた時、私は日光に向かっていました。

久々の家族旅行で、一泊の予定で鬼怒川に遊びに行く、その車中だったんです。


電話の話によると…


ヘルパーさんが何度インターホンを鳴らしても応答はなく、ドアのロックがされているので、合鍵があっても中に入れない状態と。


あきらかに、誰のことも家に入れたくないという、父の意思表示でした。


それにしても…


怒ると暴言を吐いて、しばらく殻に閉じこもるのは、毎度毎度のことだったので、うんざりはするものの、驚きはしませんでしたが…家族以外の人までをも巻き込むのは初めてのこと。


ここで何かがおかしいと気がついて、誰かが泊まり込んだりしていれば、翌日あんなことにはならなかったかもしれない…。


いや、泊まり込んでいたなら、もっと悲劇的なことが起こっていたかもしれないかな…。


間も無く、ケアマネさんが到着して、呼びかけても反応はなく…


インターホンを鳴らしては、女の人ふたりが名前を呼び続け、玄関ドアを叩き…そんな騒ぎを見て、次第に近所の人が集まり始めたそうです。


実家近辺はとても住民の結びつきが強い地域だと思います。
子ども会なんかの町内会の活動も、お祭りなんかも盛んで、若い頃から一緒に活動するからか、年をとっても交流は続いていて…父の年代になると亡くなった方も多いですが、父も近所に仲間は多かったです。


本当に心配して見に来てくれた人もいれば、騒ぎを見たくて 近づいて来た人もいたと思います。
10人近くが、実家の周りを囲んでいたそうです。


同じ都内に住んでいる姉が実家に向かっていましたが、まだ到着していませんでした。


だから私が、逐一、ケアマネさんや、二軒隣に住んでいた民生委員の方と連絡を取り合って、しばらくインターホンでの呼びかけと、玄関ドアを叩いての呼びかけをしてもらっていたんですけど…


9時半近くなって、民生委員の方から電話で言われました。


「玄関のドアのロック、壊してもいい?」


とにかく、中で倒れていたりしたら、一刻を争うからと言われ、私は承諾しました。


近所で働いている男性が、会社から工具を持って来て、ロックの部分を壊したそうです。


家の中に入ってみると、父は布団の中にいました。


耳元で名前を呼んでも、ゆすっても起きなかったため…その場にいた全員が「意識がない」と思ったとのことでした。


「お父様、意識がないようなので、救急車を呼びますね!」


姉が到着したのは、救急車が着いた頃でした。
姉の家でも、部活へ行った長女が学校で熱を出して倒れたらしく、その迎えもあったりで、出足が遅れてしまったとのことでした。


「これでまた仮病だったら、本当に許さないんだから!!」


姉は、朝、一番に連絡をした時からずっと、仮病じゃないか、ただ、ふて寝をしてるだけじゃないかと言って怒っていました。


そう……


そう姉が怒って言う程に、私たち姉妹は、父の仮病にずっと振り回されてきたのでした。


風邪を引いたようで具合が悪い。
息が苦しい。もう俺はダメかもしれない…。


さっき、椅子に乗って探し物をしていたら落ちた。
動けなくなった。もうダメかもしれない…。


そんな連絡がくる度に、私たちは実家に駆けつけました。
私は、片道2時間かけて。


いつもお世話になっていた看護ステーションに緊急連絡を入れて、来られる看護士さんに来てもらって…看護士さんの判断だけでは、持病もあることだし心配だからと、救急車を呼んでかかりつけの病院に運んでもらって…


信じられないことに、毎回仮病でした。


だから、姉が怒るのも無理のないこと。でも、今回は本当に脱水症か何かかもしれない。


病院へは姉に付き添って行ってもらうことにして、私たちは、病院での結果がわかるまで、そのまま鬼怒川で子どもたちを遊ばせていようということになりました。


そして…


数時間後、姉から妙にトーンの低い声で連絡がきました。


「やっぱり仮病だったよ」と。


やっぱりか…でも、何だか、姉の様子がおかしい。もっと怒っていていいはずなのに…。


父は、病院に入った時は寝ているような、意識がないような感じだったけれど…検査が終わって、仮病だとわかって、次に会った時は、看護士さん相手に暴言を吐いていたそうです。


「俺はただ寝ていただけだったんだ!なのに、あの女が俺の家の、俺の部屋の壁を叩いたり、蹴飛ばしたり、大きな声で奇声をあげておどかしたりしたんだ!救急車なんて呼びやがって!あの女を捕まえろ!」


あの女…とは、ケアマネさんのことです。
ケアマネさんは、父の部屋の壁を叩いたり、蹴飛ばしたり、奇声をあげたりなんか、もちろんしていません。


妄想がエスカレートしてる…
ここでもっとそのことを深刻に受け止めなきゃいけなかったんです。
今思えば。


でも、何度も言うように、怒って、妄想まじりの暴言を吐いて、殻に閉じこもって、しばらくすると、すがるように頼ってくる…


もう、何百回も…私たちは、子どもの頃からそんな父を相手にしてきたので、確かに今回は酷いな…とは思ったけれど、そのまま精神科を受診させるとか、そんな考えは、少しも浮かんできませんでした。


今回は酷い…


父は、姉の姿を見つけるなり、ものすごい剣幕で話し始めたそうです。


「俺を捨てておいて、今更何しに来たのか」と…。
「娘のような顔をするんじゃない、この、鬼が!」と…。


姉は、そう言われてショックだったのか、受け止めきれなかったのか、電話で私に、言いました。


「お父さんは、やっぱりあんたたちが引っ越していったことが寂しかったんだよ。捨てられたって言ってたよ!どうすんの⁈」

 


もう、このあたりのことから、思い出すのがキツイ。


私は、父のことを捨てたんじゃない。
姉も、その事情はよくわかっていたはずなのに…。

 

 

そう


ちょうど、約3年前まで、私たち一家は父と同居していました。
同居は、10年に及んでいました。


同居を解消することになった理由は、ひとつではありません。


本当にいろいろな理由があって…やむなく私たちは引っ越しました。


できることなら私だって、子どもたちだって、あのまま、あの街で暮らしていたかった…。

 

 

 

 

凄く長くなりそうなので、一旦ここで切ります。

 

 

 

私は、何のために、こうして、こんな辛い記憶を掘り返して書いているんだろう。


わからなくなってきた。


でも、ひとつだけ言えることは…


ひとりで抱えていることが、辛いんだってこと。


自分で自分をカウンセリングするように、これからも少しずつ書いていきます。