これまでと、これからと

私の今までと、これからの記録。主に父への片道の手紙です。

その2日前(2014,11,20)

あの夏の日のことは、一生忘れない

私の人生で、最も苦しくて辛かった日


2013年8月10日

 

 

 

その少し前から、嫌な予感はありました

 

 


その2日前、父は、新しく利用することになったデイケアセンターの見学に行ったんです


父の痴呆の症状が進んで(これは後に、痴呆ではないことがわかるのですが)、介護度をワンランク上げて要介護2にしてもらい、利用できるサービスが増えたため、夏の間の熱中症予防に、外に出掛ける機会を作ったのでした


父は東京でひとり暮らしをしていたので、熱中症対策として、なるべくヘルパーさんが家にいたり、デイケアセンターに行ったりと、ひとりだけで家にいる時間をつくらないように、綿密なスケジュールを組んでいました


なんで、そんな状態の親を、ひとり暮らしさせるのか?と、普通は疑問に思いますよね
そのことは、また後々お話します


少人数しか受け入れないアットホームな雰囲気が売りのセンターで、その日は、スタッフがみんなで父の歓迎の料理をふるまってくれるとのことで、私はとても楽しみにしていました


でも、前日になって、私の三男(当時4歳)が熱を出してしまい、同行できなくなってしまったんです
事情を説明して、信頼しているケアマネさんに、父の付き添いを頼みました


父にも、三男が発熱してセンターに同行できなくなったことは、説明してありました


後のケアマネさんの報告では、あまり食が進まなかったようだけど、楽しんでいた、とのことだったので、「そうか、良かった。なら、すぐにでもお世話になりたい」と思ったんです


その日は、デイケアセンターから帰った後、出張で診察して下さる医師の方が初めて父を診てくれた日でもありました


父は持病があったので、通院していたのですが、その通院の負担を減らすため、また、もっとこまめに身体の状態をチェックする必要があったため、医師の方に来てもらうことにしたんです

 

 

異変は、その夕方から始まりました

 


父から、もの凄い剣幕で電話がきたんです


「今日俺をあんな場所に連れて行くことを決めたのは誰だ?おまえか?おまえだろ!! 何をおまえは企んでいるんだ!あんなところで食事なんかさせて。○○(ケアマネさん)とあの店(デイケアセンターのこと)と手を組んで、俺から金を巻き上げるつもりか!! ○○は、ズカズカうちに勝手に上がり込んで、俺を無理やり連れて行きやがって!俺は行きたくなかったのに!!」


「それから、あの医者は何だ!誰が頼んだ?あんな医者も、頼んだ覚えはないから、もう来ないでくれって言ってやったぞ!」


「は? 」


そんな風に勝手な妄想を信じ込んで、ひとりで怒ることは初めてじゃなかったので、始めは「またか」と思っただけでしたが…いつもより妄想が強くて…完全に痴呆が影響しているなと、思ったんです


だって、そのデイケアセンターに行くことも、医師の方が来ることも、父も交えて話し合って決めたことで、事前に、センターの方とも、医師の方とも合ってお話もしていて、父もにこやかに「どうぞよろしくお願いします」って、言ってたんですから


でも、そうなってしまった父は、何を言っても聞いてはくれないので、その日の電話は、あまり強く言わずに、ハイハイと話を聞いて終わらせたんです


そういうことが、すごく増えていたから、私も疲れてしまうっていうこともあって


すると夜になって、今度は、毎日夕飯だけ頼んでいた、食事の宅配サービスの方から、私の携帯に電話がきたんです


「お父様が、呼んでも出てきません!」


慌てて家に電話しても…もちろん、父は出ません。わかってました。怒ると、そうやっていつも連絡さえとれなくしてしまう父だったから


でも、外面がいい父は、家族以外の人に迷惑かけることなんか、なかったのに…


仕方がないので宅配の方には食事を持って帰ってもらって、姉と相談して、翌日、姉が家に様子を見に行くことにしました


そして、そのことを全て、ケアマネさんに報告したら、ケアマネさんも、翌朝に見に行ってくれることになったんです


忙しいのに、抱えている仕事はうちだけじゃないのに、ありがたい…

 

 

そして、翌朝…


8時頃だったでしょうか
毎朝行ってくれていたヘルパーさんから、私の携帯に電話がありました


「お父様が、呼んでも出てこられません」


またか…


仕方ない、もうちょっと様子をみるか…


私たち家族はそう思ったけれど、ヘルパーさんやケアマネさんは、そうは思ってくれません。


「中で倒れてるんじゃないか」


責任がありますからね、あらゆる可能性を考えるのは、当たり前のことです


でも、その後、近所の人も巻き込んだ、ちょっとした騒ぎになってしまったんです

 

 

 


またまた長くなりそうなので、次に続きます

 

 

 


最近、脱線記事ばかり書いていたのですが、ようやく、父のこと、書く気力が湧いてきました
まずは、最も辛かった日のこと、書いていきます


読んでる方が、辛い気持ちになりませんように…

 

 

今日はここまで

 

「花の匂い」に泣いた夜(2014,10,28)

ちょっと脱線してましたが

ようやく、父のことを書きますね

 

 

今年の1月のある夜
最寄りの大型スーパーからの帰り道、車の中で聞いていたCDから流れた歌に、私は釘付けになりました

 

その歌は


Mr.Children「花の匂い」

 

「本当のさよならをしても
あなたの呼吸が私には聞こえてる
違う姿で 同じ微笑みであなたは
きっとまた会いに来てくれる」

 

 

HANABIが聞きたくてアルバムを買って
ずっと車で聴いていたのに
一体何を聴いていたんだろう

 

この曲を聴いて…
人生で、あんなに泣いたのは初めてというくらい、車の中でわーわー声を上げて泣きました

わー、わーって…


ちょうどその一週間程前に
父の葬儀を終えたばかりだった私は
ずっと、ずっと張り詰めていた気持ちが切れることも、緩むこともなかったんです

なんせ、新居を建てている真っ最中に、建設中の新居に事情で入らなくてはならなくなって…
葬儀を終えて自宅に戻っても
家の中はまだ半分工事現場で
大工さんたちのお世話やら、留守にしていた分滞っていた、家の仕上げの話し合いやらで、落ち着くことができなかったんです


そんな中、スーパーからの帰り道で「花の匂い」を聴いて…
ブチッと張り詰めていたものが切れたのを感じました

 

そんな風に泣いた話をすると
父の生前、私と父の関係がうまくいっていて
父の死が、私たちにとって辛く、悲しいものだけであったようですが…


実際は、違います


でも何故かその時は、父の葬儀を無事にやりとげることができた達成感からか
父が亡くなってしまったという圧倒的な事実、喪失感から過去のいろいろが思い出せなくなってしまっていたからか


本当に悲しくて悲しくて泣きました

 


父の葬儀は1月の中旬に
地元のお寺でやりました


地元の人たちの葬儀は、大体そのお寺でやることが多かったので、どうしても、そこでやりたかった…という場所です

 

そのお寺は幼稚園も経営していて、私も、私の子ども達も、その幼稚園の卒園生でもあります
そのくらい、私たちの生活に入りこんでいる場所だったんです

 

父の葬儀…できるかどうか、やっていいものかどうか、随分悩みました


近所の人にも
「へー、葬式やるの?やるんだぁ」
なんて言われて…辛かった

 

でも、父は何も悪いことなんかしていないし…多少はご近所の皆さんにご迷惑や、ご心配をおかけしたかもしれないけど…

だから、葬儀は普通にして、地元の皆さんに見送ってあげてほしかったんです

それが娘としてやってあげられる、最後の務めだと思ったから

 


立派な式でした

久しぶりに親族が集まって、みんなの近況を知ることができて良かった

父は長男で、うちは本家だったので、祖父母も一緒に住んでいました
だから、私たちが子どもの頃は、うちは親族が集まる賑やかな家だったんです

そんな、賑やかな昔に戻ったような、2日間でした


みんなには、父が晩年どんな様子であったかは、話しませんでした
知らなくていいこともありますからね
いいイメージのまま、記憶に残しておいてほしかったので


喪主は姉でしたが、親族代表の挨拶は、私がやりました

以下、自分の記録のためにも、全文を載せます

 

 

私は次女の○○でございます。親族を代表しまして、ひと言、ご挨拶を申し上げます。

皆様には、大変ご多忙中にもかかわらず、また、寒い中を、亡き父・○○の葬儀にご会葬頂きまして、誠にありがとうございます。皆様にお見送り頂き、父も喜んでおることと思います。

生前父は、この町が大好きで、ここで暮らすことにとてもこだわっていました。古くからの友人や町内の方々に囲まれて、趣味のカラオケを楽しんだり、旅行やお祭りに参加したりと、アルバムを見返してみると、皆様に囲まれた、楽しそうな父の笑顔がたくさんありました。
若い頃から持病があり、闘病が長く続いていたり、早くに妻に先立たれたりと苦労していた一方で、とても充実した、幸せな日々であったと思います。

晩年も、嫁いだ娘の所よりも、この町で生活したいと言う父の希望を叶えるため、私たち娘は、全力で父の生活を支えてまいりました。
しかし、昨年夏頃、持病の肝炎が進行して意識障害が出るようになり入院。その後は坂道を転がり落ちるように容態が悪くなり、去る1月9日、午前1時55分、肝硬変による消化管出血のため永眠いたしました。80歳の誕生日を迎えたばかりでした。
長年心臓を患っていた父でしたが、心臓の治療のためにした手術で肝炎に感染し、命を落としてしまいました。心臓は最期までしっかりと動いていたことを考えると、残念でなりません。
最期は、家族に見守られる中、静かに息を引き取りました。苦しむこともなく、安らかな最期でした。

入院中も、家に帰ったら仲間とカラオケに行きたいと、CDプレーヤーを病室に持ち込んで、一生懸命新曲を覚えていました。
そんな父に代わりまして、父の生前に賜りました、皆様のご厚誼に、心よりお礼申し上げます。
本日は、ありがとうございました。

 


私の次男が最後のお別れの時に
棺の中の父のおでこにキスをしたんです
あの光景には、次男の気持ちにも、泣きました

 

子どもたちにも、本当のことは、これからも話すつもりはありません


本当のこと…
何故、近所の人に「葬式やるの?」なんて言われたか

 

 

それは、父が自宅で自殺を図ったからです

その時は、かなり騒ぎになって、ご近所にも迷惑をおかけしてしまいました


晩年の父は…これは自殺未遂後に気づいたことなんですが、精神を病んでいました

いえ、多分、父は、ずっとずっと昔から、精神を病んでいたのだと思います

私が、子どもの頃から…
いえ、もっと前からかもしれないけれど…

 

 

 

そんな話を、これからボチボチしていきますね

 

 

 

しっかりしなさい(2014,10,14)

母がいなかったことで辛かったことは、あまりありません

 

いないことが当たり前で、むしろ、家に母親がいたということを思い出せないほどでしたから

でも、いくつか辛い…というか、嫌だなと思うことはありましたよ

 

ひとつは、遠足のお弁当

うちには祖母がいたので、普段の食事は祖母が作ってくれていました

 

この、祖母という人は、信じられないくらい料理ができない人で(笑)
今思うと笑ってしまうようなものを食べて私は育ったんです
いつか、祖母の料理については、一本記事を書きたいと思っています


そんな祖母が、遠足のお弁当も、作ってくれたんですけど……煮物とかの「弁当箱開けたらまっ茶色!」って感じのおかずが嫌で嫌で
3年生くらいからは、自分でお弁当を作ってました

 

出来上がってるハンバーグや、ミートボールなんかを、詰めるだけでしたけどね
一応、レタスをひいてみたりして

でも、綺麗に詰めたつもりでも、隙間だらけだったから、お昼に食べるまでの間に、リュックサックの中で片寄ってしまって……蓋を開けたらぐっちゃぐちゃ、なんてことばかりでした


友達のお弁当が羨ましくてね


綺麗に型抜きされた野菜や、タコのウィンナー、茶色くない卵焼き…全部が私にはないものだったから、羨ましくて、恥ずかしくて…


蓋でお弁当を隠して食べてました

 

 


あと嫌だったことは…


よく大人に「あなたの家には母親がいないんだから、あなたがしっかりしないとね」って言われたことかな…

 


今でもはっきり覚えていることがあります

あれは、やっぱり小学校3年生くらいの頃

 

当時、夏休みとか、学校が長い休みに入ると、私は親戚の家に預けられていました

JRの御茶ノ水駅でバスに乗り換えて行くんですけど、父は御茶ノ水の駅周辺で、親戚の家に渡す手土産を探し歩いて、私も後をついてウロウロしていました


私はもう、母の手作りのワンピースは着ていなかったけれど、白いプリーツスカートのワンピースを買ってもらったのが嬉しくて、その日も着ていました

ショーウィンドウに映る、自分の姿をウキウキとチラチラ見ながら…


親戚の家に着くと、父は間もなく帰りました
で、そこの家の叔母に「持ってきた荷物を見せてごらん」って言われて、私は鞄を叔母に渡しました


なんせ長い夏休み、私は自分の大事なものをたくさん鞄に詰め込んでいました
ひとりでいても、寂しくないように、家にいるように、ひとりで楽しく遊べるように

 


叔母は、私の荷物が異常に少ないのにびっくりして、私に鞄を見せるように言ったんですね

どうして少なかったか


私は一着も着替えを持って行ってなかったんです!


これには叔母もあきれたらしく
私は随分と叔母の話を聞かされました


「あなたの家には、母親がいないんだよ。お父さんじゃ気がつかないことが沢山あるんだから、○○(私の名)ちゃんがしっかり自分のことをやらなきゃダメだよ」

 

そう言って叔母は、自分のシュミーズを持ってきて、肩紐を短く短く調節して、私にワンピースを脱ぐように言いました

「このワンピースだって、白いからパンツが透けて丸見えだったよ!恥ずかしい」

 


恥ずかしかったのか…

私は、2度とそのワンピースを着ることはありませんでした

 


しっかりしなさいと言われても、まだ9歳くらいの私には、どうしたらいいかもわからず

しっかりしなさい、と言われ続けた挙句


いろんなことが、心配で心配で眠れなくなったりしたものでした


ある夜は、「もし、今おばあちゃんが死んじゃったら、私がご飯を作らなきゃいけなくなる。味噌汁は、どうやって作ったらいいのかな」って考え始めて

明日の夕飯のメニューを考えて、次の日は何にしようかと考えて、さらに作り方を考えて…不安で不安で眠れなくなったことがありました

 

 

「しっかりしなさい」

 


その言葉は私の心に深く沈み込んで
その後の人生でも、私の性格に大きな影響を与えたなと思っています


私がなんとかしなければ
私がしっかりしなければ

 

父とのことでも、私はそんな風に頑張っていました

 

 

次からは父のことを書き始めますね

 

 

 

今日はここまで

 

 

 

お母さん、ごめんね(2014,10,12)

さて、続きは、母が最後に倒れて、危篤になったところからですね

 

病院のICUに駆けつけたとき、母は既に、意識がなく、人工呼吸器に繋がれていました

病院のトイレで発作を起こして倒れたとのことでした

 

「お母さん、もう、頭の中は天国に行っちゃってるんだって…」

父は、私にわかるようにそんな言葉で説明してくれました

すでに、脳死だったんですね

 

心拍数を表すモニターの画面を見ながら、私は不思議な気持ちになったのを憶えています

身体は生きているのに
頭の中は死んでいる
全く理解できない


人の身体が部分的に死ぬということがわからなかった
身体が生きてるんだから、まだ大丈夫なんだよね?
頭だって、なんとかなるよね?


そんなことを思いながら
リズミカルな心拍の波形を見ていました

そして、その波形が波立たなくなり
直線になる様子を想像して、怖くなって、ICUを出ました

 

ドラマみたいだけど
これは、ドラマじゃないんだな
人工呼吸器って、あんな風に体を切って、管を入れるのか
すごく痛そうだな
トイレで倒れたのか
お母さんが最後にみた景色は、トイレだったのか、なんか、かわいそうだな…


何故か、その日の夕方に病院の窓から見た夕焼けを、鮮明に憶えています
時間は、午後の4時半くらいでした

まだこんな時間なのに、もうこんなに暗い…

11月の始めの頃って、どのくらい日が短くなったっけ?と思う時、今でもあの日の夕焼けを思い出します

 

その日は病院に泊まって

2週間後に母が亡くなるまで
何度も病院から呼び出しがあって、私も学校へ行ったり行かなかったりでした


一度、夜中に電話があった時は、本当に怖かった

心臓が止まったから来て下さいっていう電話だったと、大人になってから聞きました

 

その時父は、寝ている私に声をかけず、姉だけを連れて病院に行ったんです

私は、電話の呼び出し音にびっくりして、起きていました
でも、寝たふりをしていました

 

あの時、父に声をかけていれば、連れて行ってくれたのかな

何故、置いていかれたのか
母はやっぱり死んでしまうのか

すごく雨が強く降っていた夜で
家に残された寂しさと、雨の音の凄さと、死というものを想像して…
身体がブルブル震えて
朝まで一睡もできませんでした


それから数日後に、母は亡くなりました


たまたま父が病院に行っている間に心臓が止まって
父は姉の高校に連絡をして、姉が駆けつけるまでは蘇生の処置がされていたみたいです

でも、そのまま、母の心臓は再び動くことはなく…


その日、私は風邪をひいて熱があったので、学校を休んで家にいました

昼過ぎ頃に「亡くなった」と電話が入った時、「ついにこの日がきたな」と思ったけれど、凄く冷静でした

 

どうしてかな

 

死というものが訪れる前は、あんなに怖かったのに
死が訪れてしまってからは、怖くも、悲しくもなかった

「お母さん、この家に帰ってくるの?それとも、尾久(母の実家)?」
なんて、祖母に聞いたりして
「うちに帰ってくるに決まってるでしょ!」って、怒られた
「家族なんだから」って…


家族か…
そうだ、そうだったな
あの人は、私のお母さんだったな


あまりに長い入院生活で、
家族であるという実感も失ってしまっていたんです


訃報を聞いた小学校の担任の先生が、家に来てくれた時も
「お母さんが亡くなったと聞いたから、もっと泣いてるかと思ったんですが、落ち着いているのでびっくりしました。一生懸命我慢してるんでしょうね」
と、先生が父に言ってた


先生、違うの
我慢なんかしてないの
悲しくないんだよ


母のいない家が当たり前
うちには母親はいない…


子どもとしては、自然と頭をそんな風に切り替えていかないと、耐えられなかったことだったのかなと思います
母親のいない寂しさに…

 

 

ごめんね、お母さん

 


あなたがどれだけ無念だったかと想像すると、
私たちのことを、どれだけ思ってくれていたんだろうかと想像すると
今は胸が張り裂けそうです

 

それと
どうしても謝りたいこと

脳溢血で右半身マヒしてたお母さんのこと、恥ずかしいと思ってたこともあったの


家の近所の道路で、お母さんが父と歩行練習をしていた時に
「あの人は誰?」
って友達に聞かれて
とっさに「知らない」って答えた私


歩行練習をする2人の後を、車椅子を押しながら歩いて付き添っていた時
向こうから、友達らしき集団が来るのが見えて
慌てて車椅子を放り出して、みんなから見えない位置まで逃げ出した私

 

私は最低の娘です

 

お母さん、ごめんね
本当に、本当に、ごめんね

 

 

 

 

あなたは、どんな人だったんだろう

 


一度でいいから、話がしてみたい…

 

 

 

 


もう少しだけ母を振り返るかもしれません

 

 

今日は、ここまで

 

 

母の記憶(2014,10,9)

父の話をする前に、母の話からしようかなと思います

 

母は、私が12歳になったばかりの秋に、43歳で亡くなりました

43歳……ちょうど、今の私の年齢です

 

亡くなる4年前に脳溢血で突然倒れて、亡くなるまで、一時的に半年くらい家で過ごせた時もあったけれど、ずっと入院生活をしていました

43歳の4年前だから、39歳の時からずっと、家族と離れ離れで、病院にいたことになります


母が最初に倒れた時、私は8歳になったばかりでした

 

最初、家族は私に母親が倒れたことを隠したんですよね。でも、隠し通せるはずもなく、すぐに倒れたって知ったんですけど

ショックで、寂しくて、布団に入るとひとりで泣いてました

布団を頭まで被って、誰にも知られないように泣きました。家族に心配をかけないように

 

大人しくて、人見知りで、幼稚園の時は同じクラスの男の子にイジメられて泣いてばかり……そんな子供だった私は、いつも、母のエプロンに顔を埋めていた記憶があります

母の、いつもちょっと湿ったエプロンの感触…


私は2ヶ月も早く未熟児で産まれて、子供の頃は身体も弱かったので、母も、私のことはいつまでたっても心配だったんでしょうね。赤ちゃん扱いされていたなと、今振り返ると、そう思います

 

母に怒られた記憶はないです

 

私が何かお手伝いをすると、いつも笑って「サンキュー」と言ってましたね。口癖だったんでしょうね

 

とても裁縫の上手な人で、姉と私のお出掛け着は、いつもお揃いで作ってくれました

母の作ってくれたワンピース、大好きだったんです。マンガのキャンディキャンディのキャンディが、アードレー家の養女になってから着ていたような、胸元がヒラヒラした、パフスリーブのワンピース。ウエストのリボンを後ろで蝶結びにして

まるで、どこかのお嬢様になったような気分になったものです

レース編みも好きで、ステレオや、オルガンのカバーは、全て母の手作りでした


私はその裁縫の才能、全く受け継がなかったわ(笑)まあ、8歳から一緒に暮らしていなかったのだから、仕方ないですよね

 

母から受け継いだもの、教わったことは、何もありません

 

いや、受け継いだものはありますね


この命

 

 

あ、それから、母はアイススケートが好きで、マイスケート靴を持ってました

そこには、不思議なつながりを感じずにはいられません

 


とにかく、母は8歳から家にいなかったので、最初こそ寂しかったけれど、いつのまにかそんな生活にも慣れていって…


家で書いた絵を、せっせと病室の母に見せていたのも最初の頃だけ

母の入院から、1年ほどたった頃、母は遠くの病院に転院してしまい、いつの間にか私の中の母の存在は、「日曜日にお見舞いに行く、病院にいる人」になってしまっていました

 


病院、遠かったな、とか

病院までの道のりにある、赤いライトのついた非常口のあるビルが、なんか怖かったな、とか

お昼に病院で食べるパンを、パン屋さんで選ぶのが楽しみだったな、とか

帰りに、チョコレートパフェを食べたことあったな、とか

病院の消毒の匂いとか…

 

思い出すのはそんなことばかりで、病院で会った母と、どんな話をしたかとか、その時の母の顔とか、全く憶えてないんです


母はね、週に一度、娘たちに会えるのを楽しみにしていたと思います

今の私ならわかります

私たちと離れての闘病生活が、どれだけ寂しかったか
週に一度、会えるのを、どれだけ楽しみにしていてくれたか


でも、あの頃はわかってませんでしたね


病院に行っても、病室よりも食堂が好きで、いつもそこでテレビばかり見てました


その後、順調に回復していた母が、病院で倒れて、意識が朦朧となったことがあって…その時、母はうわ言のように言ったんです

「◯◯(私の名)は、まだ赤ちゃんだから、私が一緒に寝てあげないといけないの。だから、ダブルベッドを買ってちょうだい。そうしたら、家に帰れる…」


そんな言葉さえ私は、「また赤ちゃん扱いしてる!」って、思って聞いていました

 


母が亡くなったのは、私が小学校6年生のとき

ある日、子ども会対抗のドッヂボール大会を学校の校庭でやっていた時に、高校生になっていた姉に、大声で呼び止められたんです

「お母さんが危篤だって!早く早く!帰るよ!」


副キャプテンだった私は、試合を放り出すのが嫌でした

だって……危篤って何?
何、ドラマみたいなこと言ってんの?
ママ、死んじゃうってこと?


まさか

まさか

 

帰らず試合に出ようとした私は、近所の八百屋のおばさんに腕をつかまれて、バイクの後ろに乗せられて、家に帰りました


何、このドラマみたいな展開…


嫌だ

嫌だ


病院へ駆けつけるまでの間、私はずっとそんなことを考えてました

 

 

 


まだまだ長くなりそうなので


今日はここまで

 

父へ

4年前に実父を亡くした。

 

あれからの4年間は、それを受け入れるために費やした日々だった。

 

父の死が、自分のせいではなかったと思いたくて、自分を正当化するためにあらゆるもの、考えを取り入れようとして、うまくはまったり、拒絶反応をおこしたり、もがいてもがいて。

 

そしてまた巡ってきた冬季オリンピックの冬。

 

 

 

4年たって

ようやく今は心穏やかに、言える。

 

お父さん、私のせいで寂しい思いをさせてしまってごめんね。

 

東京の家はまだ壊されてない?

まだ、そこにいるの?

 

今日は雪が降っているよ。

 

寒いから、うちにおいで。

 

また一緒に暮らそう。

 

田舎はなーんにもない寂しいとこだけど

 

私がずっと一緒にいるからさ。

 

だから

 

うちにおいで。

 

 

 

 

お父さん

 

大好きだよ。

 

 

f:id:rinrinkyh:20180202070600j:image

 

 

 

これから、過去に他ブログで書いていた日記のうち、残しておきたいものをこちらに転載します。

 

残しておきたくないものと一緒に、あちらのアカウントは削除してしまいたいので。

 

転載の文章は、タイトルの後に当時の公開日時を入れることとします。